〜母を通して気づいた、やさしくなりたい自分〜
高校生の頃の私と母が並んで歩いていたあの帰り道。
私は少し前を歩きながら、恥ずかしさで心がざわざわしていた。
でも母は、変わらず楽しそうに話しかけていたっけ。
「お願いだから、やめて」
私は昔から、家族が“恥ずかしい”と思うようなことをすると、とても嫌な気持ちになってしまうタイプでした。
たとえば、母が道で人に話しかけたり、商店街で見知らぬ人とすぐに打ち解けて楽しそうに話している姿。
高校生の頃の私は、それが本当に嫌で、そばにいるのも苦しく感じることがありました。
心の中で、「お願いだからやめて」と何度もつぶやいていたし、時には母にきつい態度をとってしまったこともありました。
母が亡くなって3年。ようやくわかったこと。
私は今、50歳になりました。
そして母が亡くなってから、約3年が経ちました。
不思議なことに、最近になってようやく気づいたのです。
母のあの人懐っこさや温かさは、とても素敵な人柄だった。
誰とでも心を開いて話し、人と自然につながっていく姿は、実はとても魅力的な生き方だったんだと。
だけど当時の私は、そんな母を“恥ずかしい”と感じていた。
本当はうらやましくて、でも自分にはできなくて、そのことがずっと心の奥で引っかかっていたのかもしれません。
恥ずかしさは、怖さの裏返しだった
今でも私は、夫に対しても「恥ずかしいことをしないでほしい」と思ってしまいます。
誰かに笑われたらどうしよう。変に思われたら嫌だ。
その感情がどうしても抜けきらないのです。
でも、最近ようやく気づいたことがあります。
誰も私なんかに、そんなに興味も関心も持っていないのに。
それなのに私は、自分自身に対して「立派でもないのに上から目線でいようとしていた」のかもしれません。
「ちゃんとしていなきゃ」「失敗しちゃダメ」「人と同じでいなきゃ」
そんな思い込みが、自分や他人の“好き”や自由な表現を、否定してしまう原因になっていたのだと思います。
そのことに気づいた今、私はとても情けなく、そして悔しい気持ちになりました。
それでも、母のようになりたい
思えば、母は本当に自由でした。
人にどう思われるかなんて気にせず、自分の心のままに人と接していました。
私は、ずっとそれができなかった。
でも今、ほんの少しずつ思えるようになってきました。
私も母のように、自由に、やさしく、人とつながって生きていきたい。
恥ずかしさという鎧を、少しずつ脱いでいきたい。
人の“好き”を素直に受け入れられる私に。
そして、ありのままの自分で誰かと笑い合えるような私になれたら――。
そんなふうに思えるようになったことが、
もしかしたら、母が私に遺してくれた最後の贈り物なのかもしれません。
あとがき 〜母へ〜
私はずっと、「恥ずかしい」を言い訳にして、
母に優しくできない時期がありました。
でも、いま心から思います。
私は母のことが、とっても大好きでした。
本当に、本当に愛していました。
なのに、どうしてちゃんと伝えられなかったんだろう。
「大好きだよ」「愛してるよ」って、たったその一言を、
なぜもっと素直に伝えられなかったのかと、今になってとても悔しく思います。
私が14歳の頃、IBSになって、
自分の中にたまった不安やつらさを、周りのせいにして生きてきたように思います。
そうでもしないと、当時の私は心が崩れてしまいそうだったのかもしれません。
だけど、時間が経って、母がいなくなって、
ようやく気づけたのです。
母は、ずっと私を愛してくれていました。
私は、ずっと母を愛していました。
遅すぎた気づきだけど、
だからこそ、これからの人生では、
もっとやさしく、もっと素直に、愛を伝えていける自分でありたいと思います。
お母さん、本当にありがとう。
あなたの娘で、本当によかった。
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